法輪寺の歴史

歴史 - History of Horinji -

海のように深く。

あの蓮如上人が、かつて米原市世継の地に滞在されていたことをご存じでしょうか。

『御文章(ごぶんしょう)』で知られる蓮如上人は、親鸞聖人のご子孫であり、本願寺第八代宗主です。
当時衰退していた本願寺を再興し、浄土真宗の教えを広く人々に伝えられたことから、私たち念仏者にとって大変重要な存在であるとともに、日本史に名を残す人物としても広く知られています。
その蓮如上人が、実は法輪寺のある世継の地に、しばらく滞在されていたと伝えられています。
時代は享徳年間(1452年頃)。蓮如上人は、1457年に父・存如上人のご往生により本願寺第八代宗主を継職されましたが、それ以前は北陸地方での教化活動や、関東にある親鸞聖人ゆかりのご遺跡の巡拝に努めておられました。
世継へのご滞在も、そのような教化の旅の途中であったと考えられています。
当時の世継村では、多くの人々が蓮如上人のもとに集い、熱心にそのお話に耳を傾けたことでしょう。今から約570年前、この地に蓮如上人のお姿があったことを思うと、世継という土地の歴史の深さと尊さをあらためて感じさせられます。

法輪寺のルーツ

蓮如上人のお話に熱心に耳を傾けていた人々の中に、当時の宇賀野村から連日通い続けていた長野滋兵衛という人物がいました。
長野滋兵衛は、宇賀野村の豪族であったと伝えられています。ひときわ熱心に仏法を聞き、やがて蓮如上人を深く慕う、篤信の念仏者となられました。
蓮如上人もまた、長野滋兵衛の念仏者としてのまことの姿を認め、「俊慶」という法名を授けられたと伝えられています。
その後、蓮如上人が長沢の福田寺に立ち寄られ、いよいよ旅立たれることになったときのことです。長野滋兵衛が上人との別れを悲しむ姿をご覧になった蓮如上人は、直筆の六字名号「南無阿弥陀仏」を、「形見にせよ」とお渡しになりました。
当時は、現代のような交通手段がない時代です。長野滋兵衛にとって、それは今生の別れにも思われたことでしょう。蓮如上人から直筆の名号を授かった喜びは、どれほど大きなものであったでしょうか。
この六字名号は、現在も法輪寺に大切に伝えられています。内陣のご代前、阿弥陀さまの左奥に、蓮如上人の絵像とともに掛け軸としてお掛けしています。
その後、法名「俊慶」を授かった長野滋兵衛は、宇賀野に一軒の坊舎を建立し、お念仏の教えを伝えることに励まれました。そして八十有余歳で往生されたと伝えられています。
この坊舎は、以来、長野家によって護持されてきました。この時点では、まだ「法輪寺」という寺号は定まっていなかったかもしれません。しかし、この坊舎こそが、現在の法輪寺のルーツであることは間違いありません。

長野家のルーツ

ここで少し、長野滋兵衛にはじまり、代々法輪寺を護持してきた長野家のルーツについてご紹介いたします。
時代をさかのぼること平安時代初期。第五十一代・平城天皇(在位806〜809年)の皇太子であった阿保親王の第五子に、「業平(なりひら)」という人物がおられました。
業平は後に皇族を離れ、「在原」の姓を賜ったことから、在原業平(825〜880年)として歴史にその名を残しています。
在原業平は、平安時代を代表する歌人として知られ、『古今和歌集』にも多くの歌が収められています。また、六歌仙・三十六歌仙の一人に数えられ、日本文学史においても極めて重要な人物です。
歌才に優れていただけでなく、その容姿も当時の人々に称賛され、「美男子のたとえとして業平の名が挙げられた」と伝えられています。
しかし、業平の人生は順風満帆ではありませんでした。親交の深かった文徳天皇の皇子・惟喬親王が皇位継承争いの中で失脚すると、その影響を受けた業平も都を離れることになったと伝えられています。
そして難を避けてたどり着いたのが、現在の滋賀県高島市マキノ町在原地区、乗鞍山の麓にある在原の里でした。業平はこの地で数年間を過ごし、当地の女性と結ばれたという伝承が残されています。
長野家の系譜は、この在原業平の流れをくむと伝えられており、その歴史は遠く平安時代にまでさかのぼるのです。

千早ふる神代も聞かず立田川からくれないに水くぐるとは

という小倉百人一首に出てくる有名な歌は、ここで詠まれたものです。ちなみに、現在のマキノ町在原地区は、今もかやぶき屋根の素朴な佇まいの家々が連なり、農村の原風景が残る素晴らしいところです。歌に出てくる竜田川も、現在なお在原集落の中央を流れています。また、この集落の北東、乗鞍山麓の林の中には、高さ65センチメートルほどの「業平」の墓も残されています。この業平の子孫が宇賀野村に移り住み、定着して「長野姓」を名乗ったといわれています。長野家の前を流れる小川は「在原川」と呼ばれ、北陸本線にも「在原橋梁」の名称が今も残されており、長野家の由緒をうかがわせます。

本格的な法輪寺のはじまり

俊慶こと長野滋兵衛によって建立された坊舎は、その後も長野家によって大切に護持されてきました。
そして1516年(永正13年)、西本願寺第九代宗主・実如上人より、ご本尊と六字名号が下附されます。これにより、この坊舎は念仏道場としてさらにその姿を整えていきました。

さらに1649年(慶安2年)、長野家より得度した「道西」が坊舎を再建し、法輪寺初代住職となります。ここに、法輪寺は寺院として本格的な歩みを始めることとなりました。

その後、第三世住職・慶順(1695〜1738年)の代には、西本願寺第十四代宗主・寂如上人より、

  • 寺号「法輪寺」
  • ご本仏尊像
  • 親鸞聖人御影
  • 蓮如上人御影
  • 聖徳太子御影
  • 七高僧御影

が下附されました。

また、このとき同時に山号を「荘厳山」と称することとなり、法輪寺の寺格はさらに整えられていきました。
現在の住職は第十一世となります。法輪寺は長い歴史の中で数多くの出来事を重ねてまいりましたが、阿弥陀如来のご尊像をはじめ、親鸞聖人や蓮如上人などの御影、そしてそれらを静かに守り続けてきた本堂は、今もなお変わることなく私たちを見守り続けています。

こうして受け継がれてきた法輪寺の歴史は、多くの先人方の信仰と護持の心によって支えられ、今日へと伝えられているのです。

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